| 法律はなぜ難しい |
法律は難しいとか、杓子(しゃくし)定規で血も涙もないとか、常識ではわからないことが多いとか、と聞くことが多いが、たしかにあたっていることもあるように思う。
これは悪用、乱用を防止する必要があることから、ある程度やむをえないところがあることに加え、法律の解釈となると、カラスは白いという理屈があるように、論理の立て方でいかような解釈も導くことができる面があるからであろう。
誰でも都合のよいように考えたいし、自分の意見と違うと、けしからんということになるから、法律のイメージがそんなことになると思われる。
特に「人権」が議論になると、とても悩ましい議論になるというのが実感である。
基本的人権の尊重は憲法の定めるところであり、人権を守ることに異存のある人はいない。といって、何でも人権といえば許されるかといえば、そう考えている人もいないであろう。にもかかわらず、人権をめぐる議論は極めて鋭く対立することになりがちである。
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| 不法滞在イラン人に関する二つの判決 |
今年10月、不法滞在し続けているイラン人に対する強制退去命令をめぐって、二つの判決があった。いずれも平成2年ごろから不法滞在し続けたうえ、平成10年過ぎに出頭して日本での在留を申請したもので、それが認められずに強制退去命令を受け、その効力を裁判で争った事例である。
一つは一家4人に関するもので、子どもがいることなどを理由に特別在留許可を申請したものであるが、最高裁はイラン人敗訴の判決を下し、国は強制退去の手続きをとっている。もう一つはイラン人が難民申請を行ったもので、地裁判決は強制退去命令を取り消し、国が控訴したもの。
これらについて、イラン人を支援する立場にある人からは、最高裁で敗訴したイラン人一家について在留を認めよとの要請がある一方、地裁で勝訴したイラン人については、判決に従い控訴するなという要請が出されている。いずれも「人権尊重」が論拠とされている。
わが国では事件の判断は裁判に委ねられ、裁判は3審制が保障されており、最高裁の判断が最終的なものとして従わねばならないことになっているが、これでは最高裁判決に従うな、地裁判決については従えということになる。
国は20万人近い不法滞在外国人を半減するため全力をあげており、不法滞在のやり得を認めるわけにはいかない。そこが難しいところである。
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| 治安強化、更生保護と人権 |
昨今、とても信じられない事件が頻発している。いじめ、虐待、親殺し、子殺し、自殺、飲酒運転、人間のやることとは思えない借金取り立てなどなど。
これに対し、治安強化が叫ばれる一方、それに反発する議論が根強くある。治安強化に対する反対論は、検察や警察の捜査などにおける人権侵害の危険を主張するものが多い。この種の議論は、ほとんど平行線といってよい。
先日、地元の保護司、人権擁護委員など、ご苦労いただいている民間の方々と懇談の機会を持った。刑務所、少年院の出所者、仮出所者の再犯防止が課題となっており、彼らに社会復帰してもらういわゆる更生保護のあり方について、今年6月に有識者会議報告書がまとめられ、次期通常国会に更生保護法案を提出する作業を進めているので、参考にさせてもらった。
興味を引いたのは、出席者がこもごも家族、地域の崩壊が更生保護、人権擁護の仕事をやりにくくしていると嘆いておられたことである。
また、活動の内容も、家族や地域の絆(きずな)を深くすることに力を入れておられるということだった。懇談中に「人権」という言葉が余り出なかったのは不思議なくらいだった。
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自分のための「人権」 人のための「人情」 |
こんなことから、人権について考えさせられた。理論的な議論や具体的な主張をするつもりはない。今や、あらゆる場面で人権が主張されているが、そもそも日本では人権という言葉はいつから使われているのであろうか。
おそらく、明治からであろう。人権というのは「人を大事にする」という思想の言葉だろうから、それ以前に日本語がなかったわけではなかろう。
似た言葉として「人情」があるが、どうも違うようだ。人権も人情も公平、公正な良い人間関係を構築するための言葉であるのだろうが、どう違うのだろうか。人情にあたる言葉を西欧ではどう言うのかは知らない。
誤解を恐れず思い付きを書いてみると、人権は相手に対して自分(自分の権利)を主張する言葉であるのに対し、人情は思いやり、哀れみ、慈しみといった相手(相手の立場)を大事にする言葉。そこが違うのではなかろうか。
こう考えてみると、日本文化には人情はあったが、人権はなかったような気になる。そして、人権尊重を普及するため、社会規範としての人情は否定されるようになったといえば辻褄(つじつま)が合うような気がする。
さらに考えてみると、自分が大事にされるためには、自分も他人を大事にすることが必要なことは当然のことである。個人としての自分の権利をきちんと主張できる社会であるためには、その基盤として人情豊かな社会が必要なのではないだろうか。
小泉前内閣をもじって、「人情」なくして「人権」なし、というのはどうでしょう。そんな社会にしたいものです。
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| (人材ビジネス 2007年1月1日/vol.246 連載第8回 永田町から より) |